昭和46年10月09日 朝の御理解
御理解 第14節
「神は荒地、荒れ屋敷をお嫌ひなさる。」
神は荒地、荒れ屋敷をお嫌ひなさる、折角の土地があるのにそれを荒らしておく、いわゆる勿体ない話しである、こんな事をしては勿体ないとこう思う、勿体ないとしておし頂く事を、神様がお喜び下さるなら、それの反対のことが、神様はお嫌いなさると言う事であります お道の信心を頂きますと、とりわけ大地の御恩徳を強調されています、教祖様御自身が、いわゆる土の中から誕生された様な方であると同時に、根がお百姓であったと言う事も有ります。
ですから御地内をみだりに汚すなよと言う御教もある訳です、御地内を汚したり言うならお粗末にしたりすると言うことを、神様が矢張りお嫌いなさる訳です、そこで例えば荒れ地でありましても、荒れ地あれ屋敷でありましても、それは充分に活用させて頂いておかげでとこう喜ぶという事が、神様がお喜び下さることであり、それを例えば土地を肥やしていくとか、沃土にして行くと言う、そういう事がお嫌いなさるではなくて、神様がお喜びになるのでありお好きになるのである。
今日はこの荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる、このお嫌いなさるこのお嫌いなさると言うところ、本当にこの人は神様に好かれるなあというものを持っては人と、この人は神様に嫌われるなあと言うものを、持っている人がありますね、惜しいなあこの人はこんなに神様に好かれるものを持ちながら、その反面こう言う神様がお嫌いなさる様なものを持って惜しい、そう言う両面を持っている訳ですね。
ですから神様から好かれるものを、いよいよ好かれるものにしながら、神様に嫌われるものを、取り除いて行く事が、一番肝心だと言う事になるのです そこで神様がお嫌いなさると言う事を、自分自身自分の上でどこか神様が一番お嫌いなさるだろうかと、言う事を知る事が大事ですね、もう一人一人ちがうのですよ。御理解頂いておりますと、ああ自分の此処を神様がもうそれこそ嫌いだと頭を振りなさる所が有るのですね。
私どもの心の中に、しかもそれは人ではなく自分のそしてまた、こう言うところが神様のお気にいらるるのではなかろうかと思うのを自分の中に感じます、ですからそれを愈々垢抜けしたものに育てて行くのと同時に、それを本気で取り除いて行く、この二つがだから大事だと言うことになる、そこを信心とは本心の玉を研くものであるのと同時に信心は日々の改まりが大事でと仰るのがその事なのです、改まると言う事はね、結局は神様がお嫌いなさる事を取り除いて行く事なんです。
人間じゃけんこれ位の事はこらえてもらわにゃと言う様な事は許されません、それに取り組んで本当に一分一厘 でもそこを取り除いて行くと言う、それは本当に惜しい人が有りますよね、それは素晴らしく神様に肉薄する様な、素晴らしいものを持っておるかと思うと、それと反対にそれをすとーと落としてしまう様な、いわゆる荒れ地荒れ屋敷的なものをね、持っているのです、もう実に残念此れは私がお取り次ぎさせて頂きよってそれを思う事がありますね。
此れだけ素晴らしいものを持ちながら、そこのところで言わば、がたっと落としておる、差し引かれておるとですからね、もう残念至極です、だから本気で一つ、神様が御嫌いなさる、自分の心の中のこう言う事、自分の行いのこう言う事を、神様が御嫌いなさると気付いたり、それを本気で改まって行く事ですよ、金光様の信心はわが心が、神に向かって行くのが信心であり、この方ばかりを皆が生き神、生き神と言うけれども、この方ばかりが生き神ではない。
皆もこの様なおかげがうけられる、と教えられる様に結局生神を目指しての信心、金光様の信心はそれですよ、何を目指すと言うのではなく生神を目指すのです金光様の御信心は。昨日私古い新聞を読まして頂きよりましたら、或る先生が書いておられる中に、いわゆるこの教典が出来る時分には、いわゆる国家中心主義のこう言う事を言うたら、皇室に御無礼になる、とかこう言う事を言いよったら、官憲の罰に問われるとか言う様な、気嫌ね気遠慮の中にこの教典が出来ておるのだから。
と言う様な意味の事を書いておられてですね、教祖の神様は一番はじめからね、御理解十八節です、今言うね、この方を神神というが、この方ばかりが神ではないと言うあの御理解、これがもし今の時代であったなら、それこそこれが一番重要なみ教えであろうと書いてありました、 例えば今の時代に金光教が誕生しておったら、言論の自由とか宗教の自由とか言う様な時代に金光教が生まれておったら、この御教えが一番正面に出される御教えであろうと、それを只御理解と言う事になっておるけどね。
私はそれを読ませて頂きながら、本当にそうだなあと思います、それはいろいろ沢山の御教えかありますけれども、その沢山のその御理解十八節ですかね、この方を神神と言うがと言う皆もこの様なおかげがうけられるんだと言うね、だから生き神を目指すんだと、だから御教えのすべてがこの生き神になる手立てと言うか、為の御教えであると言う事になるのです、だからこの御教えはそんなに重要なことであると、教えておられます。御伝記金光大神にもそのことがいくらも出て来るですね。
信心して神になることを教えてやるぞ、信心して神になれいと、生きとるとき神になりおかずして、死んで神になれるか等の御教えは御伝記金光大神の中にあると言う事が、書いてありますがね、この世で神になっとかずして、あの世で神になれるかと、此れも私の持論であります。神になる事を楽しみに信心せい、死したる後に神になる事、死んだら御霊の神になると言うてまつられるけれども、それは本当の神じゃないと、もうこの世でわれをとわが心が、われながら拝めれる心なんです。
われながら一歩でも神格と高めておくと言う事がです、金光様の御信心なんです、この世で神になりおかずしてあの世で神になれると思うかと、言う様なお言葉が此処に出て来ておりますね、此の方金光大神は神になる事を教えてやると、信心とはそれだと思う、と言うとられます、だからこの方の信心の信は、信ではなくて、神人、神ひととも読むのじゃと教えておられます。
ですから私どもは矢張りそこを目指ざさにゃいけんと、ならそこを目指すためにはどう言う事になるかと言うと、神様に好かれるものをいよいよ育てて行くと同時に、神様に嫌われると言うものをいよいよとり除いて行かねばと言う事がわかるでしょう。今日は神様は荒れ地荒れ屋敷を嫌いなさると、だから荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさると同時にです、お嫌いなさると言う内容が私どもの心の中に信心の中についておる、それを取り除いて行こうと言う事が信心だと言う事。
そこで結局その内容を御教えをもって言うと、日々の改まりが第一じゃと、信心は又は信心とは、本心の玉を研くものじゃと言うこの二つがある、だから本心の玉を研いて行くと言う事はいよいよ神様に好かれるものを持っておるなら、それをいよいよ研き上げて行く事、御嫌いなさると言うところは、神様がこれは自分の嫌われるところじゃろうと、自分で思い当たる節が有りましょうが。
ああ自分のこげなところが神様嫌いなさるとじゃろう、もう神様が悲しい顔なさるのは此処じゃろと、此れはもう一人一人にあるんですよ、これ程熱心な信心をさして貰うて、これだけ迫力を持っておりながら、その迫力が悪い方にも迫力を持って行く、神様が御嫌いなさる方にも、例えばこう言う事をすれば神様がお嫌いなさる事と知っておる、それでもそれを改め様とはせずに、御詫びの印しにと修行しよる、そげな事それでいっちょうも進まん訳ですね。
その時に詫びるけんこらえてはくれるだろうばってん、進めやせんでしょうが、これはまあその人のめぐりではなくて、家のめぐりじゃろうかと思う様な、人がありますね、この人にこれがいっちよなかならねと言うごとある人が有るです、その人達が一生懸命信心しよる。そして信心も段々巧者になってまいりますから、もう本当にお詫びの印しにと言うて信心しよる、だから一生お詫びの印しで終わりになってしまう。
惜しい事だから成程お詫びの印しにと、信心しよると言うその建気な心は、神様認めて下さろうけれども、此れでは神格は進んじゃ行かん、お詫びしなければならん様なものが自分の内容があるなら、それを本気で取り組む事、いわゆる日々の改まりが大事と仰る様に、それに取り組んで行く事、私はここんところを辛抱しぬかせて頂く、信心をせなければ神様に向こうて行く信心にはならんと思うですね、もうそこんところを信心辛抱と言うなら、信心辛抱。
そしてそれをね改まらして頂く事が、成程神様に近ずくとじゃろうと思う様に、それが改められた時にはもうすっきりするものです。中々ね一生の中に何回そう言う事が出来るか分からない位の事ですね、本当にと言うと日々の改まりが第一と言うもう、例えば一寸した事形の上で妙な癖の相手の人に感じの悪い、感じを与える人がありますね、これはだから人に感じが悪い位だから、神様にも感じが悪い訳です、例えば傲慢であるとか実意丁寧の反対なんですから、もうこれなんか神様は本当にお嫌いなさるですね。
自分は良いように思うとろうばってんと言う事になって来るです、けれども相手の人間がです、どうした横着な態度だろうと、どうしたお道の信心をさして貰いよって、実意をかいだ事じゃろうと言う様なものやらです、私どもが本気で改まろうとすれば、それが日々の改まりが出来る訳です。けれどもですね、心の中に巣食っている様に、心の中にこびりついている様なもの、もうこれは家のめぐりでもあろうかと思われる様な、ものを取り除くと言う事は矢張り難しい事です。
それこそ泣く泣く辛抱しいしいと言う、辛抱させて頂きよる内に、いつの間にかそれがとれて来る訳です、その大なるものが我情我欲です、我情のために苦しんどる一昨日の朝の御祈念のときでした、御祈念にですね恋いをして苦しんでいる氏子の事を祈り願ってやれと頂いた、それはねしてはならない恋もある訳です人情から言うと、ここの信者の中にも有るです、いくらも何人もけれども神様はその氏子の事を願ってやれと、自分も苦しくて苦しくてたまらんでおる。
だから神様の方に手が出らん、もうその事だけでいっぱいだから、恋いに身をこがしておる氏子と言う事を頂いた。恋いしてはならない人妻を恋いしたり、恋いしてはならない妻子ある男を恋いしたり、それが神様の良いの悪いのじゃないけれども、その苦しんでおるそのことを取り除いてやれと、おっしゃるのです神様は、それは中々難しい事、そう言う事にいつの間にかなって来ておる。
神様にすかれるものを持っておる、その反面に神様に嫌われるものを持っておる、本当にこの人にここが無かったら素晴らしいばってんと言うのはだいだい今日私が申しておる事は、金光様の御信心とは此の方の御信心とは神になる事を教えてやるのぞと、こう仰っておられる、生きておる間に神にならずして死んで神になれるかと、金光様の信心はもうこれが焦点だと、金光様の御信心とはわが心が神に向かうのが信心だとだから、この方の信心は神人と書くのじゃと教えておられる。
だからその信心を目指して貰うと言う事がです、神は荒れ地、荒れ屋敷を嫌いなさると仰る、その神様が嫌いなさる様なものを、私どもが持っておって神様になれる筈はないと、ああ自分のこげなところが神様が御嫌いなさるとちゃろと、これを嫌いなさると言う事は良く分かるとわかったらです、それを改まって行くことなのです、同時に愈々神様に好かれる事を育てて行く事なのです、その神様の御嫌いなさると言う事の第一は我情我欲であると言う事、人妻を恋いする等と言うのはこれは我情です。
奥さんがあるとじゃから、ですから我情をね捨てて行く、切り捨てて行く、決して情を使ってはならんと言う事ではない、我です、我のついた情をすてろとこう言うのです。慾をしてはならんじゃない、我のついた慾をすてよと仰る、ですからはっきり、私どもの御教えのそれに照らしますと、私どものどこか嫌われるか、どれが嫌われるかわかる、例えば態度の上でも、形の上に表れてくる、態度の場合でもそうです、横へいな態度人が感じを悪くする。
あげん所が人に嫌われておると、人から注意を受けたり自分から感ずるなら本当に実意丁寧にならにゃいかんです、我儘横着それが人の感情を悪くするなら、神様も感じ悪くなさる、いわゆるお嫌いなさる訳ですから言葉使い一つの上にも、神様に喜んで頂く様な言葉使い態度一つでも神様に喜んで頂く様な態度、それを育てて行くと言う事、今日はお嫌いなさるとこう言う神様がお嫌いになる、神様から御嫌いなさる様な事を改まって行くと言う事が信心だと、それが自分の性根の中にもうそれこそしみこんどる。
もう親代々に家のめぐりの様に、しみ込んでいると言う様なものは中々取りにくい、生まれつき素直な人もある、生まれつきごう慢人もある。ですから素直な心一つで神様に成れると言う程しの、神様がお喜び下さる心であるとするならば、その素直でない心と言うのは神様か御嫌いなさる心だ。神様がお嫌いなさるその心を本気で取り除かして貰う、それにはそれこそ本気で信心辛抱の修行が必要である、猫や犬にだにのようなものがくっついておる、それで猫や犬はだんごろりんして苦しみよる。
自分ではどうにも取れない、今日私が言う我情でも我欲でもそうです、それを人間じゃけんこの位は当たり前と、言う訳です、ならそれを当たり前といったら、神になる道を行じてないと言う事になる、わが心が神に向こうていない事になる、自分ではどうにも出来ない事があると、形の上の態度とか言葉使いとか、まあ形の上に表れるものならば注意をして改めるにしてもです、だからそう言う事も日々の改まりの中に改まって、いよいよ下品な人ならば上品になる私は稽古をせねばならんと思う。
それが人にいやがられたり、嫌われたりするものであるとするならば、だからそれと同時に自分の心の中にもう食い込んでおる様なもの、それを人間だからと言うてそれは神にはなれん、わが心が神に向こうてはいかん、それでそこでそこに気ずかせて頂くならです、それこそ泣く泣くでも辛抱しいしいに、辛抱して頂いておる内にです、それこそだんごろりんする程しに苦しいけれども、犬猫がそのダニを自分で取る事が出来ない様に、人間も矢張りそう言うところがある。
自分ではどうにも出来ないないものがあると、みすみす此れは神様に嫌われとる、此処が改まれば自分の御徳か受けられると思うても、どうにも出来ない事がある、神様に嫌われる極端なものを自分が持っておる、と言うものは神様のおかげを頂かなければ出来るものではない、そこでです、その苦しむと言うこと、だんごろりんしておると言うこと、ここが辛抱なんである、それこそ身も世もない程にです、苦しむけれどもですねそれを辛抱して行くところにです。
あらこの犬はえらい苦しみよるがと言うてから、人間がそれをダニならダニを取ってくれる様なものです、私共が本気でそこを改まろうと、これがあってはおかげにならんと、此れがあっては、和賀心が神に向かうと言う様な事は、及びもつかないと、知ったならです、本気でそれに取り組んで苦しんでおると言うとこです、そこに信心辛抱しておると言う事です、苦しいけれども信心辛抱させて頂いておると。
ちょうど人間が猫や犬をつかまえておって、あらここにこげなダニが食いこんどるけん、これは苦しいかったろうと言って、取ってやったらすっきりする様なものです。神様かねそれを見のがす筈がなかて、神様が取って下さる、此れは私の体験ですけれどね、もう一週間位寝らんくらいに、だんごろりんとする位に、私は大体こり性ですからね、それをこうと思い込んだらね、それが分るまではと言うのは、此れは十何年も前の話しでしたけど、もうとにかくね、この胸の後ろと前が痛くなるとですけん。
その事を思い続けたら、胸の痛みに耐えかねるなんて歌の文句がありますがね、本当にそうですよ、これからここがね、一寸神様、一寸思うことをやめさせて下さいと言う位に苦しいです、それがどうでしょうね、それが苦しみ抜いたある朝自分でとれとるのが、とれとうのが分からなかった、そしたら自分で全然思わんで済む様になったと言うのは自分で苦しんでおるその姿を、神様ご覧になってそのダニが食い込んでおったのを一寸取り除いて下さった様なものじゃないでしょうか。
これは私はだから此れは私は皆さんに自信を以て言えることなんです。これは人間だから仕様はなかなんて絶対いかんです、取り組んどらなければ、それが我情です、我欲です、もうそれが取れた後の何と言うか爽やかさと言うでしょうがね、我情を言うことはいらん、我欲を言うことはいらん、もうこげな有難いことはない、そこに我が身は神徳の中に生かされてある、と言う神様の心の中に一緒にその働きをうけながら、生活して行けれる状態と言うものが頂けるのです。
最近また私は一つそう言うことを感じている事が有るのです、これは一ちょ昔の事を思いだしてね、自分でもこれは気が付かなかった、まあむしろ良かつのごと思うとった、ところがこれは神様がおきらいになる事が少しづつ分って来た、未だ姿勢ができとらんけれどもです、これはどうも改まらにゃならんと、まあそのチヤンスを願っとる訳ですけどね、それが信心さして頂いとる者には必要なのです。
神様からこれは嫌われるもの、神様に喜んで頂けるものを持っておる。その反面に神様に嫌われるものを持っておるとするならば、お詫びのしるしに信心するてんなんてんは、もしそれが一生続いたら一生それはのかれん、お詫びの印しに信心しよるけん、おかげは頂くでしょうけどもね。心が神に向こうて進んで行かん。此れはどうでもひとつ、お互いがね本当に楽になる程しの改まらして頂く事をね。
それは本当に人に小言の一つも言いたい、それを言わんですむそれを言わんで済む迄の間は非常に苦しむです、言いたい事をぐっとおさえよるから、けれどもいよいよ言わんで、済むおかげ頂いた時には、こげな楽な事はないです、言わんで済むのですから堪えるとじゃないです、そこにはちゃんと体験が生まれて来る。だからそれがいよいよ有難い、いよいよわが身は神徳の中に。
生かされてありと分る生活をさせて頂く事ができる。今日はねお嫌いなさる、神がきらいなさる、ここんところに焦点を置いて聞いて頂いたんですね、だから皆さん今日は早速からです、もう神様かお嫌いなさると言うものを自分の態度とか、形の上でもまた自分の心の上にも、感じるところがあるとするならです、そのお嫌いなさるものを取り除かせて貰おう、それが改まりと言う事を今日は申しましたですね。
どうぞ。